前回:23話「断絶」
2016年9月
その日の夜、仕事を終えて自宅で休んでいると母から電話。
「NHK!見てみて。じゃあね!」プツッ、ツーツーツー・・・
・・・相変わらず自分の用件だけ言ったら電話を切るやつ。高齢者に多い気がする。
仕方なしに何が映っているのかとTVをつける。すると、青いエプロンのような作業着姿で白髪交じりのおじさんが石膏にまみれて義足を作っている。
あぁ、義肢装具士ね。
僕はただ無心でその様子をしばらく見ていた。
なにかで見たことがある人・・・名前は知らないけど、前になにかで見たことがある人だ。
十数年前、沖縄に来てからも歩くことを諦めきれず、この地域では有名な砂田義肢製作所へ義足製作の相談に行ったことがあった。そこで僕の足を見た義肢装具士は、「両脚膝上からの切断者でこんなに断端が短い例は見たことがない。義足は作れても歩行ができるかは分からない。でも面白そうだからやってみたい。」そう言い、義足メーカーであるオットーボックの社員と沖縄リハビリテーションセンター病院の理学療法士を紹介してくれた。しかし、また連絡をすると言ったきり。それから音沙汰はなかった。
僕も毎日仕事をしている傍ら、本気で見てくれそうな人以外は無駄な時間を割くようなことはできなかった。こちらの情熱はそのときに十分伝えたはずだったので、先方はきっとその程度の熱量だったのだろう。
それから更に時は過ぎていき、義肢も進化した。
そして2016年現在。コンピューター制御膝継手のC-Legも4世代まで進化し、1997年に販売を開始した初代モデルが約4kgだったのに比べ、4世代目のモデルは約1.3kgまで軽量化されていた。販売開始から約20年。技術の進歩は計り知れない。
話を戻そう。
その番組を見ていて、今まで自分が見てきた義足製作現場の雰囲気とはまるで違うと感じた。POと患者との距離がとても近いというか、POがしっかり義足ユーザーと向き合っていて親身に寄り添っている。その様子を見ていて率直に、「もしかしたら、今ここでならいけるかも。」と思った。
もちろん歩けるようになる根拠なんてない。ただ、また失敗するかもしれないという不安よりも、今なら歩けるようになるかもしれないという自信の方が大きかった。そして、これがきっとあのとき医師から言われた ”歩くためのチャンス” が訪れたのだと解釈した。そのいっぽうで、僕は両大腿義足のリハビリが非常に辛く厳しいということを良く知っている。だから、やるなら多分年齢的に最後の義足リハビリになるだろうと思った。
僕はテレビに映っていたその施設と義肢装具士を調べ、すぐにコンタクトを取った。
そこは東京都荒川区にある鉄道弘済会義肢装具サポートセンター。
義肢装具の製作から装着訓練に至るまでの一貫したサービスを提供している総合的なリハビリテーション施設らしい。
僕が問い合わせをした義肢装具士。名前は臼井さんという。
それから2週間後、臼井さんから電話がかかってきた。そのとき改めて僕の足の状態を詳しく聞かれ、一度見てみたいと言われた。
その後、義肢装具サポートセンターで診察予約を取ったが、今はベッドが満床とのこと。それから1年後にようやく診察を受けられることになった。
2017年12月
久しぶりに味わう、この何とも言いがたい緊張感と期待感。
僕は2泊3日で沖縄から東京の義肢装具サポートセンターにいる臼井さんに会いに行った。
「臼井さんは僕に義足を作ってくれるだろうか。」
「僕の足を見た瞬間に断ったりしないかな。」
そんなすがるような想いと不安な想いが交差する。移動中にいろんなことを自問自答しながらセンターへ向かった。

12月の東京の空気を体感するのは何年ぶりだろう。
沖縄との気温差は10度以上。羽田空港から外に出ると寒さで顔が痛く、冷たい空気が身に染みた。

やがてセンターに隣接している南千住駅に着いた。
厚手のコートを着て白い息を吐きながらいそいそと歩く人々。そんな雑踏を横目に、自分は何だか贅沢な経験をさせてもらっているような気持ちになった。
そして間も無くセンターに到着。

ここが義肢装具サポートセンターか・・・
義肢装具に関係のない健常者なら気にも留めずに通り過ぎていってしまうような場所。でも僕にとっては絶対に来なくてはいけない頼るべき場所。
「さて、じゃあ胸を張って堂々と行くか!」
まるで会社の採用面接を受けるような緊張感を胸に、僕は車椅子でセンターに入っていった。
つづく
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